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マンガの最後のブラッシュアップで、今考えていること。


糸島移住漫画家のつのだふむです。

「体メタ認知」の形式で、できるだけ振り返りをしっかりしていきたいと思っています。簡単ではないので、「やろう」という意識を忘れずにしゃべる、というところから。


まず、今描いてる「運命のリフォーカス」の現状と、どうやってさらに良くしていこうかっていう話。
そのための振り返りなんですけど、 この前佐渡島さんと話してて、
こっからね、より良くしていくために、「レイヤーで分けて考えよう」と思いました。

テキスト、つまりセリフとかナレーションをまず分けて考える。

テキストだけ置いて、コマは空白にして、その文字だけ読んでてもすごく面白いっていう状態をまず作る。
テキストだけで内容がわかる、読める面白いものを作る。

で、今度その文字がなくても、絵だけでわかる、おもしろい、そういうコマを入れていく。絵だけでどんどん先が気になるコマを入れていく。で、

さらにその2つを合体させた時に、もっと こういう構図がより良くなるとか、こういう書き文字を入れようとか、こういう効果を入れてこうとかっていうことをどんどん足していく。

なんでそういう風に1つずつやっていこうかなと思ったかっていうと、

佐渡島さんからこの段階に来るとよく「あとはふむくんらしさをどう入れるかなんだよね」ていうワードがよく出てくるようになってきて。

他にも色々ね、もっと コマ運びとか構図とか、もっとでできる、もっとセリフ選びとかもっとできるっていう話は出てるんだけど、
そん中でも抽象的なのが「ふむくんらしさ」っていう言葉があって。

で、僕はそれ言われた時にそうかと思って、
ふむくんらしさみたいなことを自分で考えて、さあ、じゃあ描き直そうって思った時に、こう、なんていうかな、 自分らしさってこうだよなって、なんとなくそれを入れるんだってわかったふうにして、体を、ペンを運ばせようとするんだけど、 大体全部失敗してきていることに気づくんですよね。

そのふむくんらしさっていう言葉に対応してペンを走らせると、実は失敗してて、で、そのふむくんらしさっていう思考にをする中で、漫画を描くほど、すごくペン運びも遅くなるというか、 なんかこう、気持ちは高まるんだけど、よし、踏み出したなっていう気持ちの高ぶりを感じつつ、なんかそれと反比例するように、 なんかこう、出来上がりがどんどんに鈍くなっていくというか。冗長にもなるし、
いらん演出をしたりとか、いらん線を増やしたり、いらんコマを増やしたり、いらんセリフを足したりを してしまっていて、そういうふうに手と脳が動いていて、結果的に長くなって、つまらなく長くなっている。

これだったら、前に描いてたものの方が洗練されて面白く読めたし、ふむらしさもまだあったという風に感じれるぐらい失敗するんですよね。直し方として。

でも描いてる時は、こう、ただシンプルにストーリーを話してるだけじゃない、「僕の感情とか僕の感覚とかを入れれてるぞ」っていう風に感じてはいるんですよね。
その最中は感じてて、ある種 手応えすら感じてしまっているんですよね。
それをやってる時って。
なんだろうな、元々あったふむらしさがない状態のシンプルなものにふむらしさをガシャって足しているつもりだからより豊かになってると感じてるし、実際その1コマだけ見た時は 素っ気ない前の一コマよりも、なんか自分なりのアイデアとかユニークさを足せれてると思うから、もしかしたらコマ単位で見たら面白くなってる可能性はあるんですけど、だからこそ手応えは感じてるんだけど、 じゃあそれが漫画として連なった時に、結局その足したやついるの。っていうのがあって、 読者的に。
で、重くなったし、何が言いたいかわかんない冗長なものが出来上がってるっていう結果が出てきて、その時に直す前のがよかったなってようやく気づくっていうことを繰り返してるんですよね。

この時、鉛が体にへばりついたような、おもーい嫌な感じになる。ああ、またこれだ、みたいな。ふむらしさを入れられてる実感があったはずなのに、出来上がりがなんかすごーく重たくて、気持ちは良くない。

で、僕ももう体がさすがにその失敗を覚えているから、この前も「ふむくんらしなんだよね」って言われた時に、じゃあふむらしさを足しますねで終わらせるんじゃなくて、

いやふむらしさを出すためには結局どういう手法を使わなきゃいけないのかっていうのを考える必要があるっていう風に思った。

頭で考えても、やっぱ体がもううまく動く気がしないっていう身体感覚があって、 ふむくんらしさとか、その構図とか、セリフ選びとか、コマ運びとか。

だから、僕の実感、実体験を伴っているディティールとかが必要っていう言葉は受け取ってるけど、 どうやったらこのストーリーの中にそれを入れれるんだろうっていう時に、もう僕は繰り返しそれを入れようとして失敗してきてるから、 入れようという気持ちだけじゃ多分うまくいかないっていうことを実感してて、体的に。

だから、それ言われた時に、どうしたらじゃあそれが入るのかっていうのを考えて、1回ふむらしさみたいなことはに囚われずに、シンプルに1個ずつ、 セリフのみ、テキストのみでの一話をまず描いてみて、それを面白く洗練させるっていうことをやろうと。

だから、なんていうかな、感覚でざっくり自分らしさ入れようってやってくと、体がなんかこう、自分の心、自分だったらどう言うかなとかをすごく考え始めるんですけど、 実際喋ったりとかして、この方が自然だなとか、こういう言い方しないかなとかってやってくんだけどね、
実際そう言うかもしれないけど物語上の美しさとか文体の美しさとか物語にとって必要な情報がどうかっていう観点がどんどん逆に抜けてってて。

リアルとリアリティの差というかね、ぼそぼそリアルに無駄な言葉まで喋ってるから面白いかっつったら 面白くないなっていう日本映画とかいっぱいあるなって自分でも批判的に見てたんですけど、そんなだったら リアルではこういう言い方はしないかもしれないけど、妙にでもこの人物のリアリティがあるっていう、
ある種口語体からちょっと離れるんだけど、文学的な言葉で、でもその人らしい美しさが出てるなっていう作品ってあると思うんですよ。

例えば小津安二郎の映画とかの言葉って変だけど、でもすごくグッとくるというか、そのシーンいいなって思わせることができて、だったらそっちのリアリティの方がいいじゃんっていう考え方とかね。
そういうのを洗練させていくには、まずテキストだけで考えていくっていう風にやって、その後ビジュアルだけで、まず絵のコマだけで考えてみるっていうのを やる。
で、ついこの間、サイレント映画的にセリフなしでも伝わるようにっていう風に演出もしてみたんだけど、もっともっと1枚絵、 写真、まさに写真家の話なわけだから、瞬間を切り取った素晴らしい1枚っていう感覚で、そのコマを切り取れてるかっていう風にもう1回考え直して、
その気持ちのいい1枚を連なってって物語にするみたいな、カシャカシャって撮っていく感じで 描いてみたいなっていう風に今僕は感じてて。

このマンガは写真家が主人公なわけですけど、
主人公が何を目にしたか、どこを切り取ったかっていう主観的視覚情報そのものがコマ運びだと思うんですよね。

で、もちろん、客観カメラっていうのもあるけど、基本的には、この星哉の感情をずっと追っていくわけだから、 カメラがどういうふうに写真としてそのシーンを切り取ったかっていう主観が、その生の感情だったり、この場面を表すわけで、
例えば、死の写真が撮れた後の病院内の景色っていうのが、今の星哉の感情を表すわけで、それをどういう1枚で切り取るかっていうことが、 星哉の感情であり、ここの一コマの構図なわけですよね。

で、それはテキストは入ってこないわけで、そこにはまずビジュアルとしてだけど感じれる絵っていうのが必要なわけで、まずそれを僕は描き起こさなきゃいけない。
で、漫画っていうのはわざわざ描くわけだから、なんとなくの絵なんていうのは1枚もあるわけがなくて、 もう必ず1本1本の線、この絵じゃなければならないっていう絵を描くから、その一コマになるんですよね。
で、 そういう意識で1コマずつ、そして全60コマとか65コマを描くわけですよ。

それを描くときに、僕はおそらく シャッターを切るように描くっていう風にやってみたいと思うってことですよね。これは。
だから、そういう風に描きたいと思ってるっていう、今の体のメタ認知なんだけど。
これは、昨日まで台湾にいて、僕は、で、その台湾の本屋にふらっと入ったところで、森山大道の台湾版の本があって、それを買ったんですよね、衝動的に。


なんでかって言うと、その裏表紙にある 女の子が縄跳びを飛んでる瞬間の1枚があったんだけど、 なんか台湾語の表紙なせいか、文字は頭に入ってこなくて、その写真だけが飛び込んできてて、感覚としてね。


で、写真がよりぐっと、こう、僕の体に入ってきたんですよ、本屋の中で。
本屋のいろんな本が全部 台湾語だから、そのビジュアルとして文字も絵も入ってくる状態で、台湾の中で僕はその感覚が面白いなと思ってる中で、 特にこの森山大道って写真家の本の表紙が目に、飛び込んできて。

で、この縄跳びしてる女の子の絵を見た瞬間に、俺の漫画もこういう瞬間を切り取った臨場感は出てるだろうか。って思った時に、出てないなって思ったんですよね。
冒頭の事故ってるシーンは写真っていう意識もあって臨場感を出してるんだけど、別に全コマこういうこの瞬間っていう絵で描けるはずで、 そういう風に描いてないなってことをその本が教えてくれた気がして、その本を衝動的に買ったんですよね。

うちにいくつか写真集あるけど、そういう目で改めて写真集を読んで、で、僕のマンガも、65コマ全部 どれをとっても写真集になるなっていう1枚であるべきだな。と。
北野武が映画が全フレームどこ切り取っても絵画になるように作りたいって言ってて、それが今またここに繋がってきたなと思って。

全コマどこ切り取っても絵画的、写真的であるだけでなく、その1コマと次のコマの関係性も、漫画の場合はやっぱりより繋がってなければならない。
コマ運びになってなければならないと思うから、
漫画はその次へ運ぶための絵画、写真であるっていうのも、より意識がしなきゃいけないから、もっと難しいと思うんだけど、 でも「繋ぎだからこの絵はビジュアルとか構図が微妙であってもいい」なんていうコマは1つもなくて、
全部額に入れて飾れるようにするっていう意識でやる。
だからある種 どこもいいコマだし、特定のコマを描きたいがための遊びのコマというわけでもないというか、 なんていうかな。
でかい大ゴマがあるから、他のコマは雑魚ゴマという考えでは全くなくて、 小さいコマなんだけど、すごくいい絵とかがあり得るし、大ゴマだから他よりいいってことでもなくて。なんていうかな、この感覚は 今までちゃんと掴んでなかった感覚なんですけど、
ネームだとて適当に描く絵はやっぱりなくなってくるんですよね。この考え方でいくと。
だからね、 うん、だから写真、森山大道の写真見た時に、なんでこの写真なんだろう。っていう風に想像が膨らむんですよね。で、これが前回 ノートに書いた「余白」ってことにも繋がると思うんだけど、

この写真を撮った時の森山大道のこととか、この時間の前後がに自然と気持ちが行くんですよね。
いい写真ってそういうことなのかもな。そんぐらいの情報量があることがいい写真なのかもな、いい絵画なのかもなと思って。
1コマだけ抜き出しても、前後が気になる。想像させる。

前後がわかるっていうよりかは、前後を予想する気になる1コマっていうことだと思うんだけど。
それを抜き出したんだよっていうこと。
「運命のリフォーカス」のテーマとも、これをしっかりやるってことは、やっぱり繋がってくるから、すごく、なんかね、 なんていうかな、なんか、この、この僕の、その、この1話の最後のこの仕上げの考え方が、すごい芯を食っていく感じがするんですよね。
うん、 なんかすごくこう、テキストと 絵のレイヤーを今分けて1つずつ仕上げてこうって考えた時に、テキストも洗練させたい気持ちもすごく、なんだろう、こう、体が血湧き肉踊ってるし、絵の1コマ1コマの洗練度、もう1枚どれでも額に飾りたいです。っていう風にする、したいという気持ちも 今まで1番高ぶってるというか、血湧き肉踊ってる。

つまり、当たり前なんだけど、自分が退屈する1コマは絶対描かないってことですよね。
たった65コマしかないわけだから、1話って全部いいコマに落とし込めるはずだなっていう感じ。
だから、僕の今の日常、今の自分の生活とか、自分が目を向けた先の目線の先とかも毎秒を切り取ってるわけだけど、 そこに選りすぐりの1枚というかワンカットがあるはずで。
で、自分はそれをなんか今の景色いいなって思った時に、そのえりすぐりの1枚を選び取ってるはずで。なんていうかな、

人が感動する瞬間っていうのは、結局その人の目が、目というカメラがベストショットを捉えたわけだと思うから。とか、ベストなテキストを捉えたわけだと思うんで。
で、人が記憶に残るのっていうのは、そういうベストショットなわけで。旅行に行ってもね、記憶に残ってるいくつかの絵っていうのは、多分、その人にとってのベストショットだったわけだから。

僕の、だから、漫画もそういう、ベストショットだっていうふうに、体とか目とか、心が踊る ところしか、漫画なんてわざわざ描くわけだから、その瞬間しか描く必要はないわけで。心踊るベストショット を65個描いて、1話としたいと思ってます。

以上です。つのだふむでした。

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